ミューズは願いを叶えない


10月20日 某時間
某マンションベランダ

 王泥喜の兄弟子に憤慨し、散々騒いだみぬきが沈黙するまでには、然したる時間はかからなかった。
 冷たいコンクリートの壁ではなく、王泥喜にもたれ掛かる事によって、温かな寝床を確保している。それどころか、温もりは逃がさないとばかりに、王泥喜の腕にしがみついていた。
「みぬきちゃん、こんな所で寝たら風邪引くよ。」
 取りあえず毛布を肩口まで上げてやり、王泥喜は彼女の身体を軽く揺さぶる。それすら気持ちが良いのか、寝息が途切れる事は無い。
「やれやれ。困ったね。」
 身動きのとれない王泥喜を眺め、向側の壁に腕を置いて響也が笑う。
手の甲を鼻梁に当てて、俯き加減で喉を鳴らす。そんな仕草が妙に格好が良く映り、王泥喜は面白くない。

「笑い事じゃないですよ。男二人に挟まれて彼女が前後不覚になったとか、耳に入ったらあの人がどれだけ怒り狂うか…。」
 可愛い魔術師の守護神は、敵に回すには恐すぎるあの父親だ。若者二人では簡単に太刀打ち出来る相手ではない。
「だったら、どうするの? あ、僕が送って行こうか?」
「だから、みぬきちゃんと二人きりで車中とか、拙いんですって。」
「此処で寝かせておくのかい?」
「それも拙いですね。」
 しんなりと垂れ下がった前髪を思案顔で眺めていた響也が、あと声を上げた。つられて見上げた王泥喜も、話題の人物を認めて瞠目する。
 そ成歩堂は両手をパーカーのポケットに突っ込んで、毛布にくるまって寝息をたてている愛娘を見下ろしていた。

「ああ、やっぱり。こんな事じゃないかと思って来てみたんだけど。」

 スウスウと気持ち良く眠っている少女に苦笑する。
「年頃だっていうのに、王泥喜くんに対しては警戒心が全くないんだ。困ったもんだね。」
「はぁ…でも、俺、みぬきちゃんに対して、そんな気分にはなりませんけど…。」
 心配いらないと言うつもりで告げた王泥喜の言葉は、成歩堂の癇に障ったらしい。
「ほお。みぬきは女性としての魅力に乏しいとそう言いたいの?」

 …誰もそんな事言ってないだろ、この親馬鹿親父。その気になります…とでも言えば、ボコボコに殴りそうな顔をしてるくせに、なんて我が侭な父親だろうか。

 心の中の憤慨をぐっと噛み締めていれば、響也が呆れた表情で指を振る。
「そうそう、失礼だよ、おデコくん。彼女は充分に魅力的だ。」
「弟くんに言われるのは嬉しくないね。」
 みぬきは生粋のガリューウェーブファン。
 父親として、娘が夢中になっている男の心証は悪いに違いない。褒め言葉としては、有り難く受け取っておくけどね。と、嫉妬羨望が渦巻く成歩堂の目に響也は軽く溜息をつく。
「成歩堂さん。生憎だけど、女の子が僕に興味を持つのは自然だと思うけど? …で? お嬢ちゃんをこのままにしておくのかい?」
 剣呑な雰囲気漂う中、変わらずに熟睡しているみぬきを響也は示した。ふむと息を吐き、成歩堂は毛布ごと娘を抱き上げる。
「悪いんだけど響也くん、車を回して来てくれないか。みぬきは連れて帰るから。」
「ああ、構わないよ。」
 にこりと嫌味の無い笑みを浮かべて、響也が立ち上がるとジャラリと音が響く。その音にみぬきがうっすらと目を開けた。
 ンン?と眼を擦りながら、響也の姿を探すように瞳を彷徨わせていたが、自分の前に父親がいると気付けば、勢いよく成歩堂ののパーカーを握り込む。

「パパ! 酷いんだよ!」

 それを聞いた途端、愛娘に何をしたと成歩堂の眼光が王泥喜を突き刺す。王泥喜の頭は脂汗を滲ませながら、必死に左右にふられた。
「悪いお兄さんが王泥喜さんの事、虐めるの…絶対駄目だよね!」
 成歩堂が頷けば、満足したようにまた眠り込んでしまう。理由を問われる前に、王泥喜は兄弟子とのやりとりを成歩堂に説明した。
  話を聞き終え、成歩堂は口の端を歪める。

「さっさと牙琉のクライアントを引き継いで独立したと聞いたけどね、その男。」

 静かな声に、そして、笑みに、王泥喜は言葉を失う。

「あんな事でもなければ、一生掛かっても牙琉を出し抜く事なんて出来なかっただろうに、目出度いね。それとも暗に言いたかったのなか? もっと秘やかにやってくれれば、後々やりやすかったのにって。」
「…。」
 響也を前にした時の苛立ちとは、全く別の不快感が王泥喜を包む。ムカムカと鳩尾に溜まっていく。
「腹が立った?」
「少しだけ…ですけど。事件を起こしたかもしれないけど、先生は仕事やクライアントに対しては真面目な人だと、俺は思っているので。」
 ふうん…納得したような声が王泥喜の耳に届いた。
「どうかしましたか?」
「君は、自分自身が傷つけられるよりも“大切に思っているもの”を傷つけられた方が堪える男なんだな。」
 また、訳のわからない事を言い出したと、王泥喜は頭を抱える。遠回しに(何か)を伝えてくるのはこの男の悪い癖だ。ひょっとして、その情報に振り回されるのを楽しんでいるのではないかと勘ぐってしまう。
「大事なものを壊されたら、だれだって怒るに決まってるじゃないですか?」
 成歩堂の言う言葉は余りにも当たり前すぎて、改めて言われるまでもない。そこに別の意味があるというのなら、はっきりと言ってもらわないとわからない。
 苦笑した成歩堂は、ポンポンと王泥喜の肩を軽く叩いた。
「ま、そのうちわかるから。」
「いや、だから、わかってますから。」
 言いたい事だけを告げ説明もせず、その上話を全く聞かない成歩堂に、王泥喜は肩から溜息をついた。
 
 
 結局意味はわからなかったが、成歩堂の謎かけには辛気くさい気分になった。響也は帰って来た途端、その事を指摘する。
 気分が顔に出る方ではないはずなのに、この男にはわかるらしい。
「不機嫌な顔してる。」
 つんと指先で額を押され、しっしっと腕を振り回して追い払う。
「放っといて下さい。どーせこの世は俺のわからない事ばっかりですよ。」
「そういう不機嫌さ、おデコくんには似合わないよ。どうしたんだい?」

 …一応心配してくれるらしい響也に話てみようかとも思う。けれども、彼があっさりと答えを返したきたら、それはそれで悔しいに違いない。
 相手は天才検事で自分は駆け出しの弁護士なのだけれど、法廷でなくても負けたくないとそう感じさせる男なのだ。
 黙秘権を行使すると気付いた響也は、ふっと笑みを浮かべた。
 
「ほら、流れ星。話せないんだったら、願い事でもしてみるといいよ。」
「…。」

 寒空の下。澄んだ空気の中では、それなりに星が綺麗に見えた。
星に願いをかけろとは、どういう酔狂だろうか。
 女の子なら喜んでも、大人の男が両手を胸の前で組み、甘酸っぱい願いなど唱えた日には、気色悪い事この上ない。
 わかってて、言ってるのか、この男は…。
 憤慨したまま響也の横顔を眺める。それなのに、星空に浮かぶこいつに綺麗を否定しきれなくて、余計に腹が立った。あまつさえ、見惚れそうになったとか気のせいに違いない。
 そうして、心の両手を胸の前で組んで、王泥喜は願い事を吐き出した。

(…こんな奴とじゃなくて、可愛い恋人と星空を眺める事ができますように。)


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